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SMiLE - ドミニク・プライア

第1回 ガレージからゴールド・スターへ(1)

「3トラックから16トラックへ移行する間に、サウンド技術はとんでもない進化を遂げた。僕にとって、それはブライアンの進化そのものなんだ。『ペット・サウンズ』から『スマイル』に至る彼の音楽を聴いた時、そこにはものすごい力が存在している。レコーディングに携わる者にとって、それがどれほど画期的なことだったことか!」——ヴァン・ダイク・パークス 2004年

 ビーチ・ボーイズの出発点はガレージだった。ウィルソン兄弟が育ったホーソーンの家。その先の角を曲がったところにあるギル・リンドナー家の車庫が彼らの練習場だ。厳格な父親の目を盗み、ブライアン、デニス、カールの三人が音楽に没頭できたのはひとえにこの友人のおかげだ。ギルがホーソーン通りで経営していたテレビ店は、ウィルソン兄弟やロック好きのクリス・モンテズらのたまり場だった。ギルが店からガレージに持ちこんでくれた機材を使って、グループになりたてのビーチ・ボーイズは練習を続けた。そのお礼にと、ブライアン、デニス、カールは、ギルの家の裏庭にアメーバ型のプールを掘り、船舶用装具やカラフルな投光照明灯で飾りつけた。

「当時はまだ小さな町がいくつも存在していて、ホーソーンもロサンゼルスに続く町のひとつだったんだ」とヴァン・ダイク・パークスは言う。

「今ではすべてが一緒になってひとつの大きな街になってしまったけど、当時はまるで違っていた。それぞれに個性があった。ギル・リンドナーはメカ好きの男で、彼のところに行くと真空管とかがゴロゴロしていて、僕なんかにはちょっと奇妙な場所に思えたよ。彼らはわずかなものを使って、大きな何かを作り出そうとしていたんだろうね。ものすごくエキサイティングで刺激的な音楽ができていたからこそ、じゃあ、レコードを作ってみようという気にもなったんだろうから。」

 50年代後半、アメリカ、ヨーロッパをはじめとした世界中の何百万人という十代の若者は、チャック・ベリー、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイスらが作り出すレコードの魔法に夢中だった。フラミンゴスの「アイ・オンリー・ハヴ・アイズ・フォー・ユー」の鮮やかなハーモニー、クロウズの1953年の名曲「ジー」がもたらす極上の歓び。それは若者たちの発想の源だった。

 そんな中でブライアン・ウィルソン/ビーチ・ボーイズが他と大きく違っていた点は、アメリカ西海岸、とりわけロサンゼルスに彼らがいたということだ。当時、世界的な文化発信地になりつつあったロサンゼルスとその近郊を含めた一帯には、モダニズムという考え方が台頭し、大きく変わり始めていた時期だった。

 また50年代の西海岸のティーンの間では、モダンジャズの人気も高かった。ジェリー・マリガン、チェット・ベイカーといったロス出身の人気ジャズマンの多くを抱えていたのが、ワールド・パシフィック・レコードだ。同レーベル所属のバド・シャンクの曲は、サーフィン映画監督のブルース・ブラウン(代表作は1965年『エンドレス・サマー』)が若い頃に製作した二本の映画『スリッピー・ウェット』と『ベアフット・アドベンチャー』のサントラに起用されていた。ビーチ・ボーイズはそのワールド・パシフィックのスタジオで、最初のデモを録音している。「バルボアにあるランデヴー・ボールルームまで、スタン・ケントンのバンドを聴きに出かけたよ」と言うのは、ホットロッド・デザイナーのエドビッグ・ダディロスだ。そのケントン楽団からは、西海岸のクールジャズ一派の大半が輩出された。

 ブライアン・ウィルソンのお気に入りだったフォー・フレッシュメンとハイ・ローズは、モダンジャズのコーラスワークをおおいに取り入れていた。その分野の第一人者、ランバート・ヘンドリックス&ロスのサウンドは、ブライアンが作っていたごく初期の音楽にも織り込まれている。リヴァーブを効かせたサーフギターに、モダンジャズの語法を取り入れたヴォーカル。1959年までには、LA初のロックンロール専門局KRLAはみずからを《ロサンゼルスのモダンラジオ局》と名乗るようになっていた。その後、ブライアンによって洗練されることとなるジャンルの下地はこうして出来上がった。「グッド・バイブレーションはモダンだった」とブライアンもかつて、テレビのインタヴューで答えている。「とてもモダンなサウンドのレコードだったんだ。」

 50年代以前、ロスは映画の撮影が行われるだけの隠棲の地だった。ところが第二次世界大戦後、その温暖な気候を求めて多くの人間が移り住むようになった。終戦後、南国の島から戻った兵隊の多くは、駐屯地での自然に囲まれた暮らしに近い生活を選んだ。彼らのエキゾティックなものへの憧れのなごりは、現在ロサンゼルスのあらゆるところに残っている。レストランやアパートの建物の流行を見ても、当時人気を呼び、映画化されたジェイムス・ミッチェナーの著書『南太平洋物語』や海洋探検家トール・ヘイエルダールの『コン・ティキ探検記』などが手本になっていることがわかる。原始的な南太平洋の島文化と宇宙時代の未来予想図が入り混じり、ロサンゼルス独特の空気は出来上がった。

 第二次世界大戦以前はロスの主たる建築様式はアールデコとモダンだった。この戦前建築の代表例が、建築家ジョン&ドナルド・パーキンソンによって設計された市庁舎であり、1932年オリンピック大会のために建てられたメモリアル・コロシアムであり、ブロックス・ウィルシャーであり、ユニオン・ステーションだ。ところが戦後、ロスの建築ラッシュの最終段階において設計を主に任されたのは、ウェルトン・ベケット&アソシエーツだった。ヴァイン・ストリートのキャピトル・レコード・タワーや、サンセット大通りのシネラマドーム、フェアファックスに建つパン・パシフィック・オーディトリアム、ダウンタウンのミュージック・センター、ロサンゼルス空港ビル、海岸沿いのサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムなど、彼らがデザインするのはどれもロスの底抜けの明るさを体現するかのようなモダンな建物だった。1964年、『ザ・TAMIショウ』というコンサート映画のため、ビーチ・ボーイズはそのシヴィック・オーディトリアムのステージに立っている。他の出演者はジェイムス・ブラウン&ヒズ・フェイマス・フレイムズ、ローリング・ストーンズ、チャック・ベリー、ジャン&ディーン、ジェリー&ザ・ピースメイカーズ、レスリー・ゴア、そしてミラクルズ、マーヴィン・ゲイ、シュープリームスといったモータウンのスターたち。この頃、ロサンゼルスのいたるところに溢れていたのは、ビーチ・ボーイズの『オール・サマー・ロング』でも全編にわたって流れている、楽天主義という考えだった。

 今では信じられないかもしれないが、ロスの都市計画は住民が周囲の自然の美しさと共存できるようにという配慮のもとに行われた。いくつものフリーウェイを乗り継ぐことで、アロウヘッドやビッグベアといった湖畔の山や、マリブやリンコンといった海岸沿いにも手軽に行ける設計になっていた。《僕と一緒においでよ、山でも海でも、君がそう望むなら》と1966年のジャン&ディーンのシングルB面曲「カリフォルニア・ララバイ」でジャン・トレンスは歌っている。そこでは歌われていないが、ロスの若者の中には冬の時期、早朝サーフィンを楽しんだあと車を飛ばし、午後には雪山で遊ぶ者もいたほどだ。80年代に入ってフリーウェイが廃れてしまうまでは、そんなことが一時間のドライヴで可能だったのだ。

 そんなモダンな生活環境はロス独特の美意識のもと、ロサンゼルスっ子たちのアイデンティティというものを形成し、ロックンロールバンドのアプローチにも取り入れられた。1960年、ギャンブラーズが地元でヒットさせた「ムーン・ドウグ」は、1959年のビーチ映画『ギジェット』をベースにしたインストゥルメンタル・ナンバーだ。1961年にはロス出身のグループが次々とヒットを飛ばした。フロッグメン(「アンダーウォーター」)、ディック・デイル&ヒズ・デルトーンズ(「レッツ・ゴー・トリッピン」)、ベルエアーズ(「ミスター・モト」)、ビーチ・ボーイズ(「サーフィン」)、マーケッツ(「サーファーズ・ストンプ」)。彼らを総称して《サーフ・ミュージック》というジャンルも確立された。

 1962年初め、ビーチ・ボーイズは『ワン・マンズ・チャレンジ』という短編映画の製作に協力した。50年代に問題になった少年非行の前向きな解決策として、十代向けナイトクラブを作ろうとする男の物語だ。ライオネル・ハンプトンの「ミッドナイト・サン」、リッキー・ネルソンの「淋しい町」、ナット・ケンドリックス&ザ・スワンズ(ジェイムス・ブラウンのフェイマス・フレイムズの変名バンド。リーダーはドラマー)の「マッシュポテト」といった曲のインストゥルメンタル・ヴァージョンの他、ごく初期の「サーフ・ジャム」のテイクも披露された。観客を前に、キャピトルのスタジオであらかじめ録音した「サーフィン・サファリ」に合わせて口パクする格子柄ペンデルトン・シャツ姿のビーチ・ボーイズ。横わけにした前髪をブリーチしたブライアン、原始人のように荒々しくドラムを叩くデニス、切り裂くようなギターソロをかき鳴らすカール。ステージには船舶用ロープやヤシの葉を葺いた屋根、巨大なティキ像。しかし実際のそこは、山麓の丘陵地帯にあるアズーサの町だった。

 最近ではエクストリーム・スポーツと呼ばれる娯楽に没頭するロスのティーンエイジャー。当時の彼らのライフスタイルは、たとえば『アメリカン・バンドスタンド』で映し出されるフィラデルフィアの若者たちのライフスタイルとは明らかに違っていた。ロスの男子高校生の会話のほとんどを占めていたのは、サーフィンとスケートボード、スキー、そしてカスタマイズされたホットロッドに関する話題。野球やフットボールといったアメリカの主流スポーツの比ではない。サーフィンやホットロッドの一番の魅力は現実の生活を忘れられる点だ。特に、サーファーにはどこかアウトサイダー的なところがあり、フットボールの試合にみられるようなマッチョなメンタリティはなかった。それでも《国民的スポーツ》に花をもたせて、ビーチ・ボーイズも「ビー・トゥルー・トゥ・ユア・スクール」という曲を1963年に作っているが、あくまでも彼らの音楽のテーマにあったのはロサンゼルス的なるものへの賛辞だった。そしてその歓びを全米中の人と分かち合いたい、というブライアン・ウィルソンの思い——。

 その決定的な瞬間が訪れたのは、ブライアンのこんな素朴な問いだった。
「もしアメリカ中に海があったなら、誰もがカリフォルニアみたいにサーフィンをやれるのに。」

 ブライアンはチャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」を土台に残りの曲を仕上げた。そこで歌われるのはバギーな水着、メキシコ製の網革サンダル、そして一日中水に入ったあと、自然乾燥してボサボサの長髪(それはサーフィンをしなかったブライアンと違い、本物のサーファーだった弟デニスそのものだった)。そこで描かれるエキゾティックな楽園の風景は全米の若者の心をとらえた。

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《K&Bパブリッシャーズからおしらせ》

6月1日、書籍『SMiLE』が発売になります。お楽しみに!

2006年04月21日 16:31| 個別ページ

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