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第3回 ヒップな連中が集まる新たな場所がみつかった
交通量が今ほど過密ではなかった時代、ロサンゼルス郊外は人々が寝に帰り、翌朝また起き、学校に子供を送り出す、そんなベッドタウンの名にふさわしかった。
ビーチ・ボーイズも何度フリーウェイに飛び乗り、ギグのためにロス近郊まで繰り出したことか。そのひとつがポモナにあるレインボウ・ガーデンズだ。
ここは1958年にジャン&アーニーがリッチー・ヴァレンスとダブル・ヘッドライナーで出演したり、ミクスチャーズというメキシコ人/イタリア人/中国人/白人/黒人の混成バンドがハウスバンドで出演していたり、黒人ニュースキャスター(当時はDJだった)の先駆け、ラリー・マコーミックが司会を務めていた。そのほかにも、カルヴァーシティにあるカリーズというアールデコ調のアイスクリーム屋、モンタレー公園内のバーンズ・パーク・コミュニティ・センター、オックスナードのショッピングセンターの開店記念、ロングビーチで大晦日に行われたリッチー・ヴァレンス追悼コンサート、オレンジ・カウンティのリテール・クラークス・ホール(サーフ・ミュージックの要塞ともいうべき会場。エディ&ザ・ショウメン、シャンテイズ、ピラミッズ、ライヴリー・ワンズ、サーファリズ等が定期的に出演している)などでライヴを行った。さらにはサンタモニカのサーフフェアや、ブルース・ブラウン監督のサーフィン映画試写会のためにサンディエゴのウインド&シーまで足を伸ばすこともあった。
ロスの中心により近いところでは、1963年に出演したシナモン・シンダーがある。スタジオシティとロングビーチに店を持つティーンエイジャー向けのナイトクラブで、KFWBのDJボブ・ユーバンクスによって経営されていた。シナモン・シンダーでヘッドラインを務めるバンドは、ロングビーチ店に出演したあと、車を飛ばし、スタジオシティ店での最終ステージを務めるのが常だった。
そんな中、ビーチ・ボーイズがサンセット大通りにあるパンドラズ・ボックスに一カ月間出演することになった。それはシャトー・マーモンから通りを隔て、ローレルキャニオンからなだらかに下ってくる道の中央分離帯の上に建つクラブ。かのシュワブス・ドラッグストアと、数年前までガーデン・オブ・アラーだった跡地に建てられた駐車場の間にある。のちにABCテレビのロックンロール番組『シンディグ!』の司会に抜擢されるKFWBのディスクジョッキー、ジミー・オニールがその広報官だった。(ちなみに『シンディグ!』のプロデューサーは、本国イギリスで『シックス・ファイヴ・スペシャル』、『Ohボーイ!』を当てたのち、アメリカに亡命したジャック・グッドである。)当時、パンドラの専属バンドを務めていたのは、フィル・スペクターのセッション・ピアニストだったレオン・ラッセルとギタリスト/ソングライターのデヴィッド・ゲイツがいたフェンスマンというバンド。60年代後半に入ると、ラッセルはソロとして、ゲイツはブレッドの主要メンバーとして、それぞれ成功を収めた。
パンドラズ・ボックスには独特の活気が満ちていた。もともとは、『七年目の浮気』や『女はそれを我慢できない』の主演男優であるトム・イーウェルと、長年、パンドラ専属バンドを率い、「ボンゴ・ロック」、「ボンゴ・パーティ」、「ボンゴ・ボンゴ・ボンゴ」などのロックンロールヒットで有名なボンゴ奏者、プレストン・エプスが共同経営する店だった。ルネッサンス、クレセンド、インタールード、パープル・オニオンといったビバップ系クラブが立ち並ぶサンセット大通りにあって、その独特のビートニクな雰囲気で知られていたパンドラズ・ボックス。それまでサンセットで定期的にロックンロールが聴けたのはシー・ウィッチだけだったが、オニールがパンドラのブッキングを手がけるようになってからは、フェンスメンをバックに従えたジャン&ディーン、ドービー・グレイ、ジャッキー・デシャノンといった地元の新鋭たちが出演するようになった。
ビーチ・ボーイズのパンドラ登場はクラブにとっても一大イヴェントだったが、バンドにとってもきらびやかな世界への第一歩だった。数あるハリウッドのクラブの中でも、パンドラズ・ボックスに出るのは特別なことだったのだ。ある晩、ブライアンは客席にいた若い女の子が飲んでいたホットチョコを一口くれないか、と頼んだ。ところがぶざまにもホットチョコをマリリン・ロヴェルというその女の子のテーブルにぶちまけてしまったことで、ブライアンの人生は大きく変わることになる。
ブライアンとマリリンはまもなくつきあい始めた。まだ十五歳だったマリリンの両親のアーヴィングとメイは、家に戻りたがらないブライアンに理解を示した。まるで本物の息子のように面倒をみて、ガールフレンドである自分たちの娘と同じ家に寝泊りすることを許した。普通、十代の恋人同士では考えられないことだ。その頃、ビーチ・ボーイズのマネージャーとなっていた父親マーリーとの関係に精神的ストレスを強くしていたブライアンにとって、ロヴェル家は心のよりどころだった。それだけでなく、ホーソーンの郊外の家よりも、ヤシの木とスペイン風大邸宅が立ち並ぶハリウッドに直結した生活環境の方が、ブライアンにとっては居心地が良くなっていたのだった。
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《K&Bパブリッシャーズからお知らせ》
今回で、このブログマガジンでの連載は終了になります。
続きは6月1日発売の書籍『SMiLE』でお楽しみください。
ご愛読ありがとうございました。
2006年05月26日 14:15| 個別ページ
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