音曲祝祭行 - 大木雄高
魑魅魍魎を哲学すると
5月31日の夜中、当稿を書かねばと思い帰宅したが、その気にならずビデオ映画を観ようとテレビの前のマッサージ椅子に凭れた。その椅子は俺には無用で家人の為の椅子だった。いつもはむしろ毛嫌いするように座らなかったが、酔っぱらいの仕業だった。朝十時頃目が覚めたので起き上がろうとすると、腰に激しく電流が走った。ぎっくり腰だった。椅子の凹凸や突起が作用して寝ている間にぎっくり腰になったらしい。もしかして軽視された「人間椅子」の残酷愛の復讐だったのか、いずれにしてもマッサージ椅子でぎっくり腰とはおぞましい。いつかこっそり捨てようにも、一人で持てた重さではない。
寝たきり状態になったその晩、知人から「大野一雄先生が夕方の4時半にお亡くなりました」と訃報を知らせて来た。〈舞踏〉の先駆者・大野一雄が百三歳だったのは知っていたし、病状もそれとなく聞いていたが、腰の痛みも一瞬忘れるほどの衝撃だった。人間訃報を受ける準備など出来てはいない。大翁の長い人生の中で、浅かったとは言え直接間接的な幾度かの触れ合いが甦って来た。1973年4月、広島市に福屋という大デパートがあって、敗戦の日、被爆にも耐えて骨組みだけを残した屋上から、終戦の号外ビラが撒かれたその福屋デパートの何十周年のイベントが最初の出会いだった。最晩年の幾年車椅子で踊っていた執念が一番焼き付いているが、
“死者のことは誰も知らない”のだ。
別れがあれば出会いがある。
2005年12月12日、「レディ・ジェーン」のライブを終えたまま飲食歓談していた四時頃、妻から電話があり長女が女児を出産したと言ってきたので、出演者だった渋谷毅、さがゆき、喜多直毅とシャンパンで祝い酒をしたその足で京都に向かった。駅で韓国のサックス奏者・姜泰煥をピックアップして、南禅寺北の坊の宿泊先、日韓交流センターの部屋に上がると急に睡魔が襲ってきたが、演奏場所に挨拶に行く必要があった。06年6月号でも触れたが、三条烏丸にある「素夢子古茶屋」は薬膳薬草茶屋で、京で古い帯問屋のご主人に韓国から嫁いで来た奥さんの沈娟卿が営んでいる店だった。挨拶を済ませてビビンパ粥をご馳走になると、隣で姜泰煥が「本物の昔からの味だ」と言った。その時、或る客が入って来たが奥の葦簀張りに消えた。客ではなくてどう見ても〈舞踏〉の田中泯だった。開演までの時間散歩に出ると、外は身がちじむくらい寒かった。十二月の京都にすっかり眠気は飛んでいた。田中泯からは共演の依頼を以前に受けていて、実現しないまま過ぎていたので、事の次第を察知した俺は姜泰煥の耳元に「今夜乱入者がいるよ」と囁いた。隅々までが古式の様式で設えてある、店内の広く暗い土間で起こった魑魅魍魎の出来事に、座敷の満席の客は言葉を失っていた。終わって、俺が姜泰煥に続いて「そして乱入した男は田中泯でした」と挨拶をすると、ドドッと湧いて素面に戻って感嘆した位だった。主人の誉田屋源兵衛に設けて戴いた帯屋の居間での打上げで、事の次第が露になって行くのだったが、知人の伊従勉京大教授の奥さんに紹介された「素夢子古茶家」が、田中泯の昔から馴染んでいた場だったとは、場が持つ縁起ほど奇妙なことは無かった。
翌13日は滋賀の近江八幡まで夕方の到着だったので、遅い目覚めでも時間はたっぷりあった。日韓交流センターの桜川邸の裏が哲学の道の入り口に面していた。サックスの練習とクリニックに時間を掛ける姜泰煥を残して、南にブラブラ歩くとすぐ高さを誇る南禅寺の三門だ。湯豆腐ではなくて、城のような高みから五右衛門が絶景かなと叫んだ気分を今更ながら味わい、右奥へ歩くとレンガで出来た堅牢な水路閣が見えた。一見不釣り合いだが、江戸から続く古さが周囲の緑と一体化しているようにも見えてくる。水路閣は琵琶湖疎水を引く水路で、北に下って若王子神社まで続くと、哲学の道で足下を流れる小川になる。辺りはまだ紅葉が残る鹿ヶ谷と呼ばれる一帯で、かっての険しさが忍ばれるが、疎水を下って銀閣寺入り口まで続く哲学の道は、ほぼ平坦なので凡人にも歩きやすい。そして、そういうこともあるのだと、
昨夜のことを柳田邦男が言う
〈シンクロニシティ=同時性〉と重ね合わせていた。

2010年04月30日 11:02
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