音曲祝祭行 - 大木雄高
「無悟」と「無垢」の違いがわからない
半年前のことになるが、今年の二月七日の朝刊に「日本棋院は、6日に終了した囲碁の2010年度棋士採用試験女流本戦で、小学五年生の藤沢里菜さんが一位となって4月1日付での段位取得を決め、史上最年少の11歳6ヶ月でプロ棋士になると発表した。藤沢さんは故藤沢秀行名誉棋聖の孫で、父は藤沢一就八段」とあった。因縁生起や輪廻転生、因果応報や血脈相乗といった言葉がフラッシュのように浮かび、これからの長い人生、紅蓮の業火の中に一人の少女は吸い込まれていくのかと、震撼を覚えた。云わんや「小学校のうちにプロになりたかったのでうれしい」と当人の弁においてをや。
2005年12月、「シネマアートン下北沢」を開館して二年目が過ぎようとしていた。客席50~70名の小さな映画館は企画特集に特集を組んで、攻めていくしかなかった。繰り返した川島雄三や成瀬巳喜男や豊田四郎など名作特集の代名詞のような監督特集は言うに及ばず、鈴木英夫特集のときには司葉子がトークゲストに来てくれた。撮影特集、脚本特集、美術特集、照明特集とその都度トークゲストとして、映画界の重鎮をお車代で呼んでは、<映画は文化である>を主張していた。映画館を出てから行った飲み会の侃侃諤々は、映画館スタッフやお客にとって格別刺激になっただろう。そんな企画の一環だった。日韓共同製作のドキュメンタリー映画『シャウト オブ アジア“ニューヴァージョン』(監督玄真行)の完成上映を記念して、同じ製作会社が作りNHKで以前に放送した、三本のドキュメンタリーTV作品をレイトショーで上映した。その内の一本が同じ05年の作品『無頼の遺言~棋士・藤沢秀行と妻モト』だった。すべて、製作会社東京ビデオセンターのプロデューサー、中村芙美子が上映に積極的に動いてくれて、支配人だった岩本光弘と話を進めてくれたお陰だった。そして、何と言ってもこの映画には故相米慎二監督が関わったエピソードが秘められていた。俺も本人から聞かされていたことだが、相米慎二は藤原秀行を映画にしたくて、暇な時間ができると藤原秀行宅に中村芙美子とともに押し掛けて撮りだめしていたのだ。それで急逝した相米慎二(01年9月9日)の願いに報いるために、中村芙美子が初めて玄真行と共同監督をしたという物語だった。
チラシのキャプションに曰く。“天才の名を欲しいままにした棋士・藤原秀行と、藤原の波瀾万丈の人生を支えてきたのが妻のモト。結婚から半世紀あまり、疾風怒濤の時を経て来た二人の生き様を見つめる”半世紀以上プロの棋士の最高峰として生きてきてなお、30年以上続いている秀行塾では、全国から集まってくる世界の名だたるプロ棋士を前に、「戦闘力をつけろ」だの「カス」だの辛辣な説教を浴びせつつ、「塾はこれが最後かもしれない」とその都度吐露して一期一会に終える。そして79歳の無限の道をとぼとぼ歩きながら、老いさらばえて<人生の真剣勝負>に挑んでいる姿をさらけ出している。当然、自由奔放な棋風は囲碁だけに止まる訳がなく、酒に女に競輪に溺れ込んだ人生でもあった。酒を飲むのは何故かと問われて、「無限の世界の自分との戦いの中で、自分の神経に耐えられないからじゃないか」と答えて、「無悟」という言葉に思い至る。
いくら勉強しても俺には
永久に「碁」は判らない
ということが判った、という意味だ。
『無頼の遺言~棋士・藤原秀行と妻モト』は、「無悟」の人にへばりついた相米慎二がいて、意を決した中村芙美子がいて出来た映画だが、彼はこの映画を知らない。02年の秋、一周忌法要の案内の通知が来て、発起人に藤原秀行の名があった。逆修とは考え方を誤り真理から遠くなることを言うが、戦時中でもあるまいに、若輩の冥福を年寄りが修するという逆修の縁がここにも生じた。相米慎二が余命の病床にいても、桜を見に連れて行けと介護人に駄々をこねた位、桜に魅せられていたことは知っている。桜に魅せられた若輩の男が、生き急ぐ老人に魅せられて死に急いでしまったということか。
「お前なんか平凡な奴と一緒になってたら、一日と持たなかったんじゃないか」相米慎二にではなく、藤原秀行が妻モトにそう言って09年5月没す。
ぐるぐる巡りの
カフカ的シナップスの行方は如何に?

2010年08月03日 11:05
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