音曲祝祭行 - 大木雄高
日本人の笑顔と風のインプロピゼーション
11月の末、テレビの報道ステーションで、アラーキーこと荒木経惟が撮り続けている「日本人の顔」の特集をやっていた。大阪、福岡、鹿児島、石川、青森、佐賀と数年前から回って来て、今年は7月3日〜5日に広島だった。7年間続く「日本人の顔プロジェクト」は当の荒木経惟に言わせると、「人間が一番表現しているのが顔」でつまり「顔が一番裸だ」となる。特に今回は“もっと生きる”ことが良いねえと語っていた。勿論被爆都市広島の被爆者本人またはその子女が懸命に生きている「顔」のことを言っている。当然1945年8月6日は今だ続いているのだ。広島出身の俺は或る日のことを思い出した。
「世界はときどき美しい」と思いたい。
10月27日、『SOUL RED 松田優作』という、生誕60年・没20年記念作品の最終試写に行って来た。「最初で最後の公式ドキュメンタリー映画」と銘打たれている通り、決して多くなかった彼の主演作品が宝物を扱うように丁重に取り上げられ、今まで公式には露見されなかった肉声インタビューや秘蔵映像とともに、松田優作と心でつながった映画人たちの証言で綴った一編だ。特に最後になった映画『ブラックレイン』の共演者だった俳優、アンディ・ガルシアをアメリカまで追いかけて取ったインタビューは、手に取るように実感が迫って来て泣けた。この御法川修の監督作品は新宿ピカデリー11月6日、他全国ロードショーは11月7日に封切りされる。
『雨が空から降れば』しょうがない不条理
北京から帰って一週間程経った2005年5月のある日、ビセンテ・アミーゴのコンサートに行った。ビセンテは今やもっとも著名なスペインのフラメンコ・ギタリストだが、彼が尊敬するという先輩ギタリストのパコ・デ・ルシアは、フラメンコ・ギター界に革命をもたらした同国の偉人で、ラリー・コリエルとジョン・マクローリンの『スーパーギター・トリオ』は、ジャズ界はおろか音楽世間の度肝を抜いた。その後ラリー・コリエルが抜けた後も、チック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」のギタリスト、アル・デ・メオラと「スーパーギター・トリオ」は続いた。そんな流れを継承しようとしていたビセンテ・アミーゴの有能振りは、早くから聞こえていた。会場の渋谷東急文化村のオーチャードホールはほぼ満席で、そんな客席の期待を上回る天賦の才とパッションを放っていた。
『浅い眠り』の街下北沢にて候
現在下北沢で計画されている国交省、東京都、世田谷区による三位一体の都市計画、連続立体交差事業は、私企業の小田急電鉄の地下化工事の厖大な費用の殆ども、地下に眠る道路特定財源(ガソリン税、自動車税)で賄ってしまう奇妙な代物である。今は小田急線の工事以外、この評判の悪い計画は何一つ着工されず鳴りを潜めている。だが2002、3年に発表されて以降、地主や借地権者としての大家と借家人及びテナントとの間で、数多くの個別的な争いが生じている。それは道路計画や駅のバスロータリー広場に入っていなかろうが関係なく、街全体が地区計画や規制緩和に覆われ、機敏に足下を狙った大家や不動産屋が、個別ビル再開発や家賃を高騰化するために立ち退きを強制し始めたからだ。行政に踊らされた哀れな拝金主義者らが、自らの街を壊そうとしている。
『ラストワルツ』を踊り続けたいのだけれど
前号に続く。予定通り去る6月20日、北京に出掛けた。六年間続いていたイタリアンレストラン&バーが開発局から退去命令を受けたので、止むなく閉めざるを得なかった。昨年内もいつ通達がくるかといった不安の気配はあったのだから半年後なので諦めるしかなかった。何てったって恐い一党独裁人民政府に誰が逆らえようか。それでパーッと閉店パーティーをやろうということだった。ノースウエスト機が空港に着くと夜の十時半は廻っていた。迎えに来てくれたパートナーの藤崎森久の車で、市街の中心の工人体育場脇のホテルに着くと十一時半だった。車中で彼が言った。「昨日水道が止まりました。で今日は電話が止められました」と。「おいおい、強制ってったって契約は六月一杯生きてるだろう!?」と俺。北京オリンピックが終わるのを待って開店した工体の店に顔を出すと、初対面の泊義人シェフと日本への留学体験のある心強い女番頭の 朝が片付けで居残っていて一瞬ホッとしたが、明日のファイナル・ナイトは心配そうだった。電気が止められたらろうそくで通夜パーティーでも始めるのか? とはいえ、北京で数日落ち着くためには、こんな時間はまず一杯だ。最近良いバー出来たというので南三里屯の「GLEN」というバーに行く。町場でこれ程本格的で整ったバーは北京で始めてじゃないのだろうか。と思わせた。銀座出身の日本の26歳の若者が黒服で店長バーテンダーをやっている。聞けば中国語をまったく喋れないと言う。頼もしくなってダイキリ他数杯を飲る。日本の若いバーテンダーが飯田君に続けば良いのに。
「上海帰りのリル」はピカレスクの匂い
遅れていた当音曲祝祭行の執筆のために、やや早起きした6月1日の朝朝刊を拡げると”中国で民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件から、今月4日で20年を迎える“とあった。改革派の胡耀邦、元総書紀の死で火が付いた民主化運動は百万人規模に膨らんだが、トウ小平主席は軍隊を出動させて鎮圧した。例によって死者の数の実体は不明だが、指揮した学生リーダーたちは海外へと亡命したり欧米との外交取り引で釈放されたりしたが、下級労働者たちの多くは、武装警察のビデオテープを破棄した程度で死刑や無期懲役判決を受けた、世界を震撼させた事件だった。八九年は秋にベルリンの壁崩壊や東欧の共産主義瓦解を見た苛烈な年だったことも、一瞬で甦ってきたが、昨晩、北京に電話を入れて、
北京行きの日程を整えた
ばっかりのことだったので、
何じゃらほいの気持ちだった。
『明日という字は明るい日と書く』のですか?
先月の四月四日に、神奈川県相模原にある臨済宗常福寺の恒例行事「死を想え=メメント・モリ」という催しが行われた。午後一時から三人の講演者による話が始まって、最後のパネルディスカッションが終わるのが五時半頃。一時間の休憩を挟んで音楽ライブが始まるという長い一日の催しは、終演後、客と一体になって酒を飲み弁当を食してやっと終えた。企画制作と人選の手伝いを毎年六・七年続けているが、因みに今年の出演者は柳田邦男と窪島誠一郎、筒井ともみの三名の講演者、ミュージシャンは坂田明と世界的に活動した後今は殆ど日本に暮らすジム・オルークだった。又もや今年も腹蔵のない剥き出しの中味が真摯に語られて、音楽は鳥やたまに通る電車の音と共演しつつコスモス・サウンドで締め括った。

