音曲祝祭行 - 大木雄高
「上海帰りのリル」はピカレスクの匂い
遅れていた当音曲祝祭行の執筆のために、やや早起きした6月1日の朝朝刊を拡げると”中国で民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件から、今月4日で20年を迎える“とあった。改革派の胡耀邦、元総書紀の死で火が付いた民主化運動は百万人規模に膨らんだが、トウ小平主席は軍隊を出動させて鎮圧した。例によって死者の数の実体は不明だが、指揮した学生リーダーたちは海外へと亡命したり欧米との外交取り引で釈放されたりしたが、下級労働者たちの多くは、武装警察のビデオテープを破棄した程度で死刑や無期懲役判決を受けた、世界を震撼させた事件だった。八九年は秋にベルリンの壁崩壊や東欧の共産主義瓦解を見た苛烈な年だったことも、一瞬で甦ってきたが、昨晩、北京に電話を入れて、
北京行きの日程を整えた
ばっかりのことだったので、
何じゃらほいの気持ちだった。
2003年に北京の国貿という町に開けたレストラン・バー「ル・カフェ・イゴッソウ」の誕生から六年間に思いを巡らせている。犬も食わない人の不幸物語だが、中国という異郷の地のことなれば少しは興味が起きるかなと思っている。02年12月、国貿の国営製麺工場跡の売り出し現場を下見して決めた。翌春から工事に入ったが、内陸北京の冬は厳しく、セメントや塗料など渇きが悪く基礎工事から中々進まない。だが縁起を担ぐ中国で、釈迦の誕生日4月8日には間に合った。晴れの日の船出だった。ところが一ヶ月やそこらの5月中旬、南方より鳥インフルエンザに襲われた。6月に入り客への感染を恐れて自主閉店した。以後再開は九月まで待った。
二年後の05年5月、中国で吹き荒れた反日行動は続いてはいたが、日系の店や会社への火付け投石は収まっていた。時の小泉首相が靖国神社のA級戦犯合祀を主張して、「他国が干渉するな」と言ったり、歴史教科書問題から春暁ガス田群の建設問題まで諍いの種は日本の政治家が自ら撒いていた。そんな不穏な空気下の二周年パーティーだった。同行した妻のこともあってまず上海に入った。上海で一、二を争う名門ホテル錦城飯店内で音という中華と和食の店を一階と二階でやっているオーナーの宮中隆は元大連「ル・カフェ・イゴッソウ」の共同経営者だった男だ。そんな関係で和食の接待を受けた翌日も、宿泊ホテルの和平飯店界隈や自の前の外灘(長江の河口一帯を言う)を散策して、新開発で話題の新天地に遊ぶといい夜時間になって、又もや音で今度は中華をご馳走になるのだった。百坪の空間にはバー・カウンターもあって、食後そこへ移動すればいくらでも時間は遣れる。
そういう時だ、突如浮んできたのは。直前に「シネマ・アートン下北沢」で企画した舛田利雄監督特集で上映した作品のひとつ「大幹部・無頼」の最後のシーンだ。人斬り五郎に粉した渡哲也が単身、悪らつな親分一統のいるキャバレーへ斬り込む。ステージでは青江美奈が哀愁たっぷりに『上海帰りのリル』を歌っている。傷つけられた青木義郎は逃げ惑い、束になって襲いかかる子分たち、長く激しい斬り合いは泥にぬかるむビル裏へ移動する。格闘音は一切消音されて、青江美奈の切々とした歌だけがオフで流れる。もう主役は歌だ。やがて逃げおおせた五郎が凭れた金網越しのバッグには、そのシーンのために作り上げた架空のフランス映画の看板が、きざなピカレスク・ロマンを誘う。映画のタイトルは「汚れてしまった悲しみ」だ。
君がため 小雨に煙る 上海路(夕方)
さて、翌日は上海の浦東空港から空路北京へと、本来の目的の店の二周年パーティーだ。俺は中国語が話せないので会話は出来ないが、顔馴染みのバーテンダーやアテンダントが勤続していて安心した。中国人の客も多く、日本バッシングのかけらもなかった。日本のニュースが偏向的に過ぎて流していたのが分かった。一年前と顕著に変っていたのは、欧州系の白人に混じったアメリカ人が増えていたことだ。服装がリゾートでうるさい、大食い大酒居座りは、百人民元(千五百円)の会費をねらったパーティー荒しに違いなかった。俺は総経理の藤崎森久に訊いた。「あんな客が普段から来ているのか」と。「いいえ、今晩初めてでしょう」「だったら追い出そう」と俺。
『上海帰りのリル』の
歌を背負った五郎気取りにゃ
我慢できないだろう普通。
そして四年過ぎた〇九年の六月二十日、北京政府開発局から撤去命令を受けた店の閉店を見届けるために、北京行きの用意を今している。何があっても不思議ではない、中国だから。

2009年06月05日 15:23| 個別ページ
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